FC2ブログ

ドイツでサブ3 | フルマラソン3時間切りを目指すドイツ在住会社員の練習記録。とドイツ的日常。

ボスニア旅行記(8)スレブレニツァという町について

時系列が前後するけど、スレブレニツァという町について。



1995年、ここで8,000人以上の民間人が亡くなった。ボスニア紛争中最悪の虐殺。



今この地には、慰霊墓地がある。8,000以上の墓。その中央に全員の名前を刻んだ石。そして、祈りを捧げるための建物。



そのための墓地だから当たり前なんだけど、すべてのお墓に、1995年と刻んである。



スレブレニツァの慰霊墓地のとあるお墓
(スレブレニツァの慰霊墓地の、とあるお墓。と、誰かの置いた花。)



首都サラエボから、バスで約4時間。



「お墓があるだけだよ」



と言ったY先輩の言葉は本当にその通りで。炎天下の中、お墓の間を縫って歩く以外に、どうすることもできなかった。



1時間半ほど、そうしていた。



僕以外にも、何組かの訪問者が来ては去って行った。



静かなものだった。日本と違ってセミもいないし。



中央の建物周辺では、大量の絨毯を天日干ししていた。イスラムのお祈りの際使うものだろう。日光消毒には最高の日よりだ。



小さな小さなお土産物屋さんが、道路を挟んで向かい側に1軒立っていた。



1冊だけ、英語の本が置いてあったから、それを買った。



お店のおばちゃんに、身振り手振りで道を聞いた。スレブレニツァの街まで、何キロですか?(墓地は町の中心から離れたところにある)



片方の手を開いて、もう片方は親指だけ立てて、おばちゃんは「ゼックス」と言った。ドイツ語で「6」の意味だ。



僕「ドイチュ?(ドイツ語?)」
おばちゃん「少しね」



と言ったんだと思う。僕はドイツ語できない。



僕「ダンケ(ありがとう)」
おばちゃん「ヴィーダゼン、チュース(さようなら、じゃあね)」(これは分かる)
僕「チュース(じゃあね)」



6kmか。帰りのバスが街の中心からだから、行かない訳にはいかないのだ。



キロ5で走れば30分なんだけどな、なんて思いながら歩き出した。


にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ
にほんブログ村

スポンサーサイト
Posted by Taka on  | 2 comments  0 trackback

ボスニア旅行記(7)スレブレニツァで会ったおじさんが言ったこと

「ユーゴスラビアは良かった」



男はこの言葉を繰り返した。



僕はスレブレニツァという町の、ひなびたスーパーの上階のレストランで、ピザを食べていた。後から入ってきた男が声をかけてきたのだった。



「どこから来たね」



スレブレニツァに来てから、英語が聞けたのは初めてだった。50代と思しき男性は、ドイツで働いていて、休暇で地元に戻ってきているのだと語った。



「ユーゴスラビアは良かった。狂った連中が、戦争を始めたのさ。今は一部の金持ちだけいい思いをして、その他大勢は貧しいままさ」



こういう意見を持つ人もいるんだ、と新鮮だった。



にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ
にほんブログ村

Posted by Taka on  | 0 comments  0 trackback

ボスニア旅行記(6)バスで出逢った青年と話した結論

「キャンプにいたボスニア人の女の子と、二人で話してたんだ。すごくかわいくて、いい子だった。で、いい感じになって、キスした。それから、手を回したんだけど、そこから先はダメだって拒否された。」


キスはOKだけど、その「先」はだめなんだ。


「そう。何がだめなのか聞いたんだ。外がいやなら、俺の部屋へ行こうか、とか。でもそういう問題じゃなくて、結婚する相手と以外はしちゃいけない、これは重要なことなの、だってさ」


彼女、ぶたは食べた?


「いや、食べない。でも酒は飲むんだぜ。」


ボスニア人女性の宗教観に関する興味深い供述だ。


僕たちは、スレブレニツァからサラエボに向かう長距離バスに乗っていた。待合室で先に話しかけてきたのは彼の方。イギリスから、NGOのボランティアで来て2週間滞在していたのだそうだ。


僕「もう何百年も昔だけど、五人組ってのがあってね、5世帯ぐらいのグループを作って、連帯責任を負わせるんだ。一人がルールを破ると、全員が罰せられるって仕組み。」


彼「うっわ、それは賢い」


僕「なんか今もそういう感覚ある気がするんだよね、日本って。近所の目を気にするとか。」


彼は大学生で、歴史専攻。好奇心旺盛で、日本に関するいろんなことを聞きたがった。野球のこと、自殺率の高さの理由、天皇制について、中国との関係、日本人の浮気観、妊娠中絶、僕の家族とそのルーツについて、エトセトラエトセトラ。


何しろ時間はあった。4時間のバス移動中、僕らはお互いの国について紹介し合った。


「なんか、日本とイギリスって、似ているところが多いね」


それが僕たちの結論だった。


Posted by Taka on  | 0 comments  0 trackback

ボスニア旅行記(5)世界遺産の橋のある町モスタル

朝8時。サラエボ中央駅前のターミナルからバスに乗る。チケットは前日の内に買ってある。料金は片道17KM(ボスニアの通貨、兌換マルク。約1,200円相当)。3時間の道中はほぼ眠りっぱなし。到着したのは、モスタルという町。


ターミナルで、帰りのバスの時間を確認する。15時、16時、18時。泊めてもらっているY先輩にあまり迷惑は掛けられないから、遅くなる前の16時のバスで帰ることに決める。日帰りである。


お目当ての「橋」の位置を地図で確認する。先輩に借りた「地球の歩き方・中欧」が役に立つ。川に沿って行くと、だんだん土産物屋が増えてくる。多くの観光客とすれ違う。東洋人は見かけない。


歩くこと20分。「橋」に到着。


世界遺産の橋、スタリ・モスト
(世界遺産の橋、スタリ・モスト)


スタリ・モスト。古い橋を意味する。1993年、紛争で破壊。その後、2004年に再建。2005年、世界遺産登録。そのおかげでモスタルは今や、ボスニアきっての観光地だ。


世界遺産登録に際しては、その歴史的価値もさることながら文化的価値が評価されたんだとか。この地はクロアチアに近く、クロアチア人とボスニャク人が主に生活している。橋の再建は、両民族の融和の象徴だったわけだ。


橋の両端には、石造りの要塞。こりゃなんとも、絵になるわ。


橋のそばでは、団体の観光客がガイドの説明を聞いている。英語のガイドが多い。クロアチアの超有名観光地ドブロブニクからバスで3時間らしいから、ついで観光で来やすいのだろう。


地元民による橋からの飛び込みが、一種の名物になっているそうなのだが、この日は見ることはなかった。Y先輩曰く、最近観光客がチャレンジして怪我をしたとかで、自粛ムードだったようだ。


橋の上及び周辺ではスリが多いから要注意だ。かなり手練れらしい。


つづく


にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ
にほんブログ村


Posted by Taka on  | 0 comments  0 trackback

ボスニア旅行記(4)とりあえず来てみたらいろいろ複雑だった件

「サラエボに1週間もいると、お墓しか撮るものなくなるよ」


Y先輩が言った。そんな場所に2年も住んで、さらに2年延長するために試験まで受けたのはどこのどなたでしたっけ、とは言わないでおいた。


僕たちは、高台に向かう急な坂道を上っていた。サラエボは山に囲まれた都市だから、坂には困らない。皮肉ではない。実際僕はとても平坦な街に住んでいるから、坂が恋しい。ランナーには、坂を思いっきり走りたくなるときが時々あるのだ。


坂の途中にある墓地に、僕はカメラを向けていた。


サラエボの墓地と赤い屋根の家並み
(サラエボの墓地と赤い屋根の家並み。お墓はイスラム様式。)


「サラエボの墓地には、紛争後にそれとは関係なく亡くなった人も相当数入ってる。だからこれを見て、『紛争でこんなに沢山の人が亡くなったのか』と感慨に浸るのは、ちょっと違うんだよね」


そういう厳密な会話ができるから、僕は先輩のことが好きなんだ。


サラエボの墓地
(サラエボの墓地。古いイスラム様式のお墓。)


高台からサラエボの街を見下ろすY先輩
(高台からサラエボの街を見下ろすY先輩。赤い屋根の家並みは、クロアチアのドブロブニクに通じるところがある。)


さて、旧市街を歩いているときのことだ。最近になって(つい先週とか)ようやく再建されたという旧国立図書館の入口に、あるプレートが掲げられていた。内容はこうだ。


1992年8月25、26日、この場所で、セルビア人犯行グループがボスニア・ヘルツェゴビナ国立・大学図書館に放火し、2万以上の本、雑誌、書類が焼失しました。


Do not forget. Remember and warn!って、最後にびっくりマークまで。どうも穏やかじゃない。このプレートの文言が、今日のボスニアの少なくともある一面を象徴しているような気がしたので、少し詳しく書く。Y先輩の言を借りつつ。


旧国立図書館に掲げられているプレート
(再建された旧国立図書館に掲げられているプレート。紛争中ここに放火したセルビア人犯罪者を糾弾する内容)


ボスニアには現在、3つの民族が共存している。ボスニャク人(イスラム)、クロアチア人(カトリック)、セルビア人(正教会)だ。1992年から95年にかけて起こったボスニア紛争とは、雑な言い方をすれば、この3勢力による独立や国のあり方を巡る戦争だった。


このプレートの文言を考えたのはボスニャク人なんだろう、ということは何となく想像がつく。サラエボの多数派はボスニャク人だし、セルビア人と名指しで強く糾弾する表現からも伺える。本当に民族融和が実現していたら、こんな強い表現使っただろうか。僕には、「まだ水に流せない」という心情が伝わってくるように思える。


Y先輩によれば、ボスニャクの特に高齢の人の中には、「Civil war(内乱)」という表現であの紛争を語ることを嫌う人がいるのだそうだ。なぜなら、そのような人にとってあれは「セルビア人による侵略戦争」だから。


一方で、当時も今も、サラエボには一定のセルビア人が住んでいる。当時は、サラエボを守るために協力したセルビア人もいたそうだ。そのような人にとって、このプレートの文言は果たして納得できるのだろうか。


銃痕の残る家屋の壁
(銃痕の残る民家の壁。ここでは珍しくない光景。)


このようなエピソードは、僕にとっては想定外だった。戦争はもっと過去のものになっていて、人々はもっと折り合いをつけていると、勝手に思っていたのだ。ところが実際には、まだまだ生々しく、人々の記憶に、日々の生活の中に、その影響は残っているようだった。


考えてみればそれもそうだ。1995年と言えば、ミスチルがシーソーゲームを歌っていた年だ。そんなに昔じゃない。もし東京に、第二次大戦のことを全く聞いたこともない人が来たら、たぶんそんな戦争があっただなんて気付かないだろう。でもボスニアは違う。かなり明示的に、戦争は訴えかけてくる。


この辺りから、僕は方向転換を余儀なくされる。明るく楽しいお気楽ボスニア旅行から、ボスニア社会科見学へ。到着3時間で、まさかこうもはっきりと突きつけられるとは。予習ゼロだった自分を恥じた。


までも、これこそが「とりあえず行ってみる」ことの効用、とも言えるかもしれない。


つづく


にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ
にほんブログ村


Posted by Taka on  | 0 comments  0 trackback
このカテゴリーに該当する記事はありません。